マニエール・ノワール

田中章滋

われは黒けれどもなお美し
ケダルの天幕のごとく、
またソロモンの帷帳に似たり

            旧約聖書


かの女は美はしくしかもそれ以上であり、驚嘆の念をそそる。かの女の裡には黒が漲り溢れ、そのあたへる感興は悉く、夜に似て深い。

           シャルル・ボードレール





 それは、詩篇『大鴉』のようにフランス窓から始まる。だが、そこにあるのは空虚 でも軍神パラスの胸像でもなく、ブロンズ製の四枚の羽をX字状に拡げた有翼人の立 像で、予め鴉か獅子と合体した姿をしている。これと同形のものが、アッシリアのアッ シュールバニパル王治世下の出土品に多く見受けられるが、顔の部分の鋳造が悪かっ たのか、それとも磨滅してしまったかして、それが如何なる精霊を象ったものか確か めよう術もない。
 月が照っている。おりしも、夏時間の遅い 宵闇を遊び人たちと共に楽しもうとするかのように、辺りに隅なく冴え冴えとした光 を配っている。
  イヴリーヌ・レジェは待っている。彼女の永久の伴侶となるべく定められた者の出 現を。そしてその懈逅の時がごく間近に迫っていることを狂おしいまでに予感してい る。
  その者は、夜毎彼女の夢に執拗に立ち現れては、鞭を振るう者の呵責なき冷厳さで、 彼女の嫋やかな肌に、焼印のように赤燿したナイフを押し当てていくのであった。し かしイヴリーヌには、アラブ式の作法によって屠殺を受ける羊のように、あるいはア ステカのインディオ達がかつて行っていたチャツクモールの犠牲のように、その試練 の執達使の姿を垣間見ることすら許されないのだった。ただ、彼女の体躯を捩じ伏せ、 羽交い絞めにする、猩猩のように畏るべき力と、気の遠くなるような痛みの記憶だけ が、いずれ訪れるに違いない運命の強大さを噛みしめるべく残されるのだった。
 今、彼女は贄となる宿命を告げられて戦くタウリス島のイフィゲーニエのように胸 を高鳴らせ、昼間ヴィクトル・ユゴー通りの高級下着店『青天使』で買ってきた巫女 の衣────黒い絹製の化粧着を纏ったところだ。脇の下から胸の膨らみへと連なる 箇所に、幾分か攣れを感じはするが、試着して点検してみないままに、それを買った ことを悔いはしなかった。

***


『青天使』のショーウィンドーは、古楽器を扱う骨董屋によくあるような木製の譜 面台に、髭文字の書体で麗々しく『月光の恋人』とタイトルを掲げ、渦巻く色とりど りの下着類を素材に、ピエトロ・ズンボのグロッタもかくやといった劇的光景を演出 していた。イギリス風の白いエナメルで塗られたいかにも瀟灑な張り出し窓を覗くと、 群青と菫色の山景から覗く夕陽の残光と月影が相照らす印象的なレマン湖畔を描いた 書割りを背に、コルセットやブラジャー、ショーツ、ビュスチェ、テディ、ストッキ ング、ガードル、スリップ、ベビードール、ペニョワール、ネグリジェ、その他ばら ばらにされて、最早もとの形状すら推し量り難い程の、肌着や備品で構成された園生 が誂えられていた。その舞台中央に、オルフェ(今時どこから探し出してきたものか、 ピエール・イマン工房の臘製のクラッシックなマネキン人形で疑した)を据え、その 竪琴の音色に聞き惚れる麒麟、犀、鹿、狼、栗鼠、孔雀、ナイチンゲール等の剥製を 配し、モンテベルディのオペラ『オルフェ』が今正に演じられつつあるかのような印 象を見る者に与えていた。
  パ リの下着屋のいずれもが、まるで馬具商や靴直し屋が、あら皮だの道具類だのを素っ 気なくただ並べたてているのと大差なく、大判のブラジャーとナイロンパンティーの 組み合わせ(神殿騎士団ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの角のある兜とそ れは大概相似形である)や石膏で固めたみたいなコルセットで示すそれらが、巨女や、 弓を射る為に片乳房を削ぎ落としてしまったアマゾネス達の、威嚇的な陳列窓であっ たのに較べ、『青天使』のこの意表を突いた見事なディスプレイは、この界隈でも一 際評判を集めていた。中でも、取り分けイヴリーヌが気にいっていたのは、天蚕糸で 器用に捻られ、オルフェの光背のように羽根を広げた、黒鳥の飛翔を象ったキャミソー ルだった。それは、『イエローブック』の表紙絵のように極めてシンプルな、それで いて絡み付くようなか黒い描線の優美さを醸し出し、予てより彼女を魅了していたの だ。イヴリーヌの信念、《黒は色彩の女王》たることをそれは雄弁に物語っていた。
  今日の午後、この夏のアルバイト先 であつた人類学博物館へと出掛けたついでに『青天使』へと寄ってみると、夏物の見 切り品に混じって思いがけぬ値段で手にいれることができたのだった。  部屋に帰り着くとすぐに、ディスコで汗まみれになるまで踊った身体であることも 忘れ、包み紙をあけるのももどかしい手つきで真っさらのキャミソールを身に纏った のだった。
  漸く満たされた思い に打ち浸りながら、改めて着心地を確かめる。胸の谷間のところが薔薇窓のように大 胆にカットされ、しかも繊細なボビンレースで縁取られたそのキャミソールは、彼女 の形良い乳房をえんどう豆を包む鞘のように柔らかく偏平させ、細っそりした胴から 腹部へと隆起する肉の畝溝を際立たせていた。あまりにもぴっちりと上体に密着する ので、いかにも年頃の娘らしい思い付きからか、身体の余分な線が目立ちはすまいか と少し気になった。たった一部屋きりのアパルトマンにしては、些か荘重すぎる印象 を与えるスカンジナビア風の衣裳戸棚、そこに誂えられた等身大の鏡(それは彼女の 第二の自我ともいえる)の前で、水鳥が羽づくろいをするように手で自らの身体を抱 き抱え、様々なポーズをつけてひとりごちる。
────「いいわ。」────一通り 着心地を確かめ終えると、ごく最近、蚤の市で見付けてきたばかりで、シルクサテン 張りの背の青い縞柄の部分が擦り切れたままのナポレオン三世調のカウチソファーに、 まるでレカミエ夫人の肖像画を意識してでもいるかのように、上体をすこし起こした 姿勢で身を預けた。軽く目を閉じると、深夜であるにも係わらず、何処からかタムタ ムの連打が聞えてくる。それはエレベーターのない旧いアパルトマンの最上階に位 置 するイヴリーヌの部屋まで、エジソン型蓄音機の懐かしい音色のように階穽を這い登っ てきて、耳に心地好く谺する。確か階下の部屋にモンテネグロ人の辻芸人が越してき たと管理人から聞いたような気がする、そして「何かに祈ってるんだわ」そう彼女は 呟き、衣装箪笥の上の船の舳先のように飾り付けたネグロ彫刻の立像に、自然と目を やる。その脇の壁には、暗黒大陸アフリカの様々の地域の祭儀に用いられた仮面 や用 具、人形、彫刻が所狭しと並べられ、骨董屋の店先を思わせる。

 ***


 イヴリーヌは白人種で生粋のパリジェンヌであったが、自分を黒白混血、否黒ん坊 であれば善かったと思う程“黒”という色彩に憑かれていた。────彼女は肌を焼 くため、スウェーデン人のように季節に係わりなく人工紫外線を浴びに行くことを日 課の一つにしていた。彼女の通うヴォエシー通りの美容院はパリスコープの広告欄に コクトーの詩“Batterie”の一節を掲げ─────

 

光る歯のあの黒ん坊は、
外側が黒色で内側が薔薇色だ
僕は外側が薔薇色で内側が黒色だ
逆にしておくれ
僕の体臭を、皮膚の色をかえてくれ
君がヒヤシンスを花に変えた方法で


────『貴嬢を心底薔薇色にする美容紫外線』と謳い文句にしていたが、イヴリー ヌは有閑マダムや、夏を先取りしにやって来るマヌカン達を尻目に、密かに思うのだっ た────《あたしは体の芯から黒くなりたいわ》─────イヴリーヌ・レジェが これ程までに“黒”に惹かれ、異様なまでの執着を示すようになったのは何時の頃か らであったろう………。シュザンヌ・バルヴィエの影響だろうか?

***


 イヴリーヌとシュザンヌ・バルヴィエが知り合ったのは人類学博物館の見張り番の アルバイト先でであった。同じ十九歳ながら大学に進まず、十六からありとあらゆる 仕事を転々としてきたシュザンヌは、自分より遥かに大人に思えた。出会った時も積 極的に声を掛けて来たのは彼女の方だった。
 始めトロカデロ博物館一階の『レスピギのヴィーナス』のコーナーで見張り番を務 めていたイヴリーヌは、気に入っていたこのアルバイトで、自分の好きなニグロ彫刻 のコーナーに就けないことを唯一不満に思っていた。だから、必要以上にトワレット に立ったり、休憩時間を引き伸ばしたりしては見学客に混じってアフリカ美術のコー ナーで油を売っていたのだ。そのコーナーに居たシュザンヌが度々見掛ける顔のイヴ リーヌにこう尋ねたのが最初の出会いだった。「こんな不細工な木偶人形やら骨だの が余程お好きなようね。学者の卵さんかしら? あたしには退屈で退屈でしかたないわ。交代時間にはまだ時間があるけど、ねぇビュッフェでお話でもしない?」

 シュザンヌは初対面であれ何であれ誰に対しても馴々しい口をきいた。一方子供の 頃から内気で人見知りがちなイヴリーヌは人を逸らさない質のシュザンヌにただただ 気圧されるばかりだった。
  ビュッフェは、高校 の課外授業の団体が引けたところで閑散としていた。当たり憚らぬ シュザンヌの声ば かりがホールで暫く反響し続けた。
「あたし最近意気地無しの愛人と別れたばかりなの。どうしようもないコキュで変 態男だったけどお金だけは散々貢いでくれたわ。でももうんざり! とっても嫉妬深 い奴だったから……暫くは働かなくても済んだけど。なるべく体を動かさなくって済 む楽な仕事でもと思ってこのバイトを選んだの。ここに来て一週間目だけど、そろそ ろ自分の体が木喰虫に食われた穴みたいな気分だわ。ねぇ、今日の仕事が終わったら ディスコにでも繰り出さない?」意気投合と言うにはほど遠かったが、シュザンヌ のこの誘いを断る理由が見つからなかった。
 それに、踊りは好きだったけれど言い寄ってくる男共を断るのが煩わしいばかりに ディスコへは行かなくなっていたので、彼女とだったら気兼ねなくダンスに夢中にな れそうに思えた。

 ディスコティック『ラ・スカラ』はリヴォリ通 りとパレ=ロワイヤルの間にあり、 金曜、土曜、それから祭日の前夜に限り女性は入場無料とのことだった、仮にその日 が金曜日でなかったとしても、近場のカフェかディスコの入り口付近でたむろしてい る男達と、即席の友達になりさえすればお金なんかいらない、シュザンヌはそう請け 合った。
  シュザンヌのダンスは熱狂的だった。舞姫サロメがもし現代に生まれてい たならこうで在ったろうと思えるほどに気紛れで、しかもありとあらゆるステップを 知りながら危うく見えるほどに、奔放に振る舞って見せるのだった。その姿はミラー ボールの反射光や、激しい音楽そのものと化して弾み、メキシコ産の飛び豆が弾ける ように他の踊りの群れに飛び込んだり、辺り構わず男達の腰にぶつかっていくのだっ た。
  ディスコで散々汗を流してから店を出ると、挑発され、すっかりその気になった男 達がぞろぞろと後を尾いてきたが、シュザンヌはそんなことには全くお構いなしだ。 イヴリーヌに向い「こいつら皆んなしみったれのガキ供よ!」そう耳打ちするなり 「いい? 一気に走るわよ!」そういったなり煩く付き纏う男達を振り払いながら、 一目散にその場を逃げ出すのだった。五十米程も走ると、まったく当てが外れて吠え 面をかいている男達を尻目に、二人は腹を抱えて笑いあった。
  心地好い夜風にふかれながら、そぞろ歩いていた二人は何時の間にかレアール地区 へとやってきていた。マヌカンが気取って歩く真似をしながらシュザンヌが言った。
  「あたしこの辺で育ったの。ようこそ、わがねぐらへ。」「やっぱり! 『ラ・ スカラ』から逃げ出した時から、そんな気がしてたわ」とイヴリーヌ「いろんな道を よく知ってるなって。」 「でも、田舎から家出して来てからだからね、学校へ行く代わりに社会勉強よ。生活 の為なら何でもしたわ! 最初に覚えたのは万引き────でも直ぐにいい仲間が見 つかって足を洗ったわ────そいでもってその仲間達と会社を作ったの。映画のエ キストラ派遣会社。すぐに潰れちゃったけど。それからモノプリのレジ係り、肉屋の 売り子、水商売、ヌードモデル、画廊の店番………。そうだわ! いまのあたしたち みたいに、座っているだけでお金になるいい仕事があるわ」シュザンヌはそう言って かつてパリの胃袋と言われていたムフタール街の、暗い路地だの袋小路だのに連れ回すのだった。
 
  そこに、かつては温室としてどこかの建物に付属していたと見える、グラン・パレ 宮を頗る小型にしたような劇場が建っていた。否、劇場とは名ばかりで、けばけばし い蛍光色で塗り立てられた看板は、シニヤックの点描画を間抜けにしたみたいな裸体 の人物たちで埋め尽され、おまけに店の名前のレタリングまで点描で描いているので、 辛うじて〈劇場〉の文字だけが判読できるのであった。ともあれ、その名なしの〈劇 場〉は如何わしさにおいて、それが何であるかを暗黙に語っていた。

「覗き部屋っていうの。アムステルダム名物の飾り窓の女に似たようなものよ。で もなにも心配することないわ」そうシュザンヌは耳もとで囁いて、抵抗を感じてむず かるイヴリーヌの背中を軽く押して中に入っていった。

 鏡張りの部屋の中で、乙女たちは、寛ぎ、しどけない姿で時を過ごしている。ある 時は、人形と戯れる幼女であったり、独りパントマイムを舞う空気の妖精シルフのよ うであったり、もの思いに耽る女学生であったりして、そこに演技を認めるべくもな い。自然に、且つ自由に振る舞っているのだ。仮りにそれが演技であったにしても、 それは始まりも終りもなく、途切れることのない演技なのであって、演ずる意識の有 無に係わるものではない。
  科学記号の亀甲型の構造に近いこの覗き 部屋は、細胞膜のような仕切りによって、その細胞を四方から取り囲み攻撃するウイ ルス的な視線の侵入を可能にしている。即ちマジックミラーの力によって、少女達側 からは無限に増殖する鏡像空間となり、外側の男達(こちらも檻のような小部屋なの ではあるが)からは草原のゼブラに涎を垂らしなが身を隠す叢ともなる、一方通 行の 理想的な覗き窓となっている。これは、肉食獣の威嚇する眼と対峙する誘惑の砦を構 成すると同時に、男達の、透明な、限りなく天使的な願望を満たすのである。
  幾つかある覗き部屋同志は蜂の巣状の連続、あるいは 胡桃や海胆の殻の空洞や骨格に似た形状をしている。時計回りに、それは鏡張りの六 角形の部屋を中心にして、各頂点から渦巻きながら、腔腸類やイカの嘴のような三角 形の小部屋が六つ形成されている。この六つの小部屋の片側には、幾つもの覗き用の 小窓が穿たれており、勿論特殊なガラスによって向こうからは見えない仕掛けだ。今 一方の壁面、即ち壁面全体が蝶番で展開するドアとなっている箇所は、常に解放状態 で、デュシャンが住んだラリー街十一番地のドアのように両義的なドアとなっている。 この部屋の隅窓に男達は、簗場の捕獲用の罠にかかった鱒のように鼻面を押しつけ、 眼には見えない入り口、否、出口を探し続けるのだ。

  イヴリーヌとシュザンヌが通されたのはそうした一つであった(無論、こうした職 業の従事者は相手に対する無関心が鉄則なのだが、案の定、切符もぎの中年女はまっ たくの無表情だった)。
  「ここでだったら誰 にも咎められずに《葉っぱ》が吸えるわ」そう言いながらシュザンヌは、自分のピル ケースから取り出した吸い差しのマリファナに火を付けイヴリーヌにも回すのだった。 未体験の興奮と戦慄がイヴリーヌの火照った体を何処か見知らぬ領域へと一気に押し流すのだった。

  イヴリーヌの部屋の時計(入り口のドアの真上に掛けられたそれは、古いスイス製 の時計仕掛けのオルゴールで、ウインナワルツに合わせて鹿追いの絡繰りが飛び出し た)が午後一時を告げた。一息ついたイヴリーヌは、一端憩いかけたカウチソファー から立上がり、飲み物を取りに部屋の隅の調理場へと向かった。久々にディスコで踊っ たせいばかりでなく、妙に体が火照る。気温もちょっと高いようだ。覚えたてのトロ ピカルカクテルを手にカウチソファーへと戻り、もとの姿勢でカクテルに口をつけた 途端、彼女の脳裏にマルチニック島で過ごしたこの夏のバカンスの思い出が鮮やかに蘇る。


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